リニューアル第1弾企画

   

第1夜 「パンドラの箱」を開けたパンクラス

 UFCとU系格闘技のファーストコンタクトを果たしたのは、そもそもパンクラス所属の選手であったことを皆さんは御記憶だろうか?

 93年11月12日コロラド州デンバーで開催された、第1回UFC。そのラインナップの中には、当時アメリカでは全く無名のシュートファイター、ケン・ウェイン・シャムロックの名前がある。パンクラスはこの4日前に神戸で旗揚げ第3戦を開催しており、シャムロックも冨宅祐輔(当時)と試合を行っている。言ってみれば、コンディション調整もクソもない状況であり、シャムロックにすれば”単なる小遣い稼ぎ”ぐらいにしか思えないエントリーであったのだろう。ケンカ自慢の素人に自分が負けるわけがない、5万ドルという高額の賞金は9割がた手に入ったようなものだ。PPVでアメリカ全土に試合が流されるのも、母国で存在の知られることが無かった実力者としては魅力的に映ったのだろう。

 しかし、その判断の狂いは、結局彼の後半生を大きく揺るがす変転に繋がっていく。まるで災いの箱を開けてしまったパンドラのように。

 ホイス・グレイシーの存在をこの段階で予測しろというのは不可能であったとしても、シャムロックの行動は蛮勇が過ぎた。無敵であるはずのプロフェッショナルファイター・ウェイン・シャムロックは、為す術もなく無名の柔術家ホイスの餌食となり、その模様が全米に放映されてしまったのだ。試合時間にして0分57秒。当時秒殺を売り物にしていた、パンクラスの看板は見事に持ち去られてしまったのである。

 かつての昭和期の”プロレス伝説”のひとつに、「道場破りのやってきたアマチュア格闘家を返り討ちにする」というものがあった。強さを売り物にするプロレスラーにとって、アマチュアに負けるということはあってはならない事態であり、ケンカ自慢のアマチュアを相手に、日頃は見せないシュートの技術で返り討ちにするというのは、プロレスファンが心のよりどころにするに足る逸話のひとつであろう。問題はその逸話を180度覆す形での”事実”が、公衆の面前に投げ出されてしまったことにある。アルティメットが提出したオクタゴンでの戦いの光景は、まさに人前に晒されることのなかったレスラーの道場でのシュートファイトをそのままショーに置き換えたものと読み替えることも出来るのである。

 ここで注目しておかねばならないのは、この”道場伝説”が見事にUWFの出自とクロスするという事である。御存知のとおり、UWFの創始メンバーである佐山サトル、藤原義明、前田日明といった顔触れは、その若き修行時代にゴッチイズムの薫陶を受け、新日本プロレス道場でのシュート修業に精を出した口である。前田などは、道場破りの来訪を常に夢想して日々のシュートファイトの練習を怠らなかったというし、藤原や佐山もまた実際にそうした無鉄砲な挑戦者を返り討ちにしてきた経験を持つという。いわば、こうした”シュート伝説”の体現者たちが、そうした道場マッチにあきたらず、シュートの実力を世に問うために始めたのがUWFという運動体であるからである。言ってみれば、UWFに集まったファンの支持は、そのまま”シュート伝説”への支持でもあったのだ。

 いってみれば、シャムロックはその”シュート伝説”を継承する、UWFの末裔パンクラスに属していたわけで、その代表として公開道場マッチに敗れ去ったということになる。これはまさに”U系総合格闘技”全体の威信をも危うくさせる結果となってしまったわけだ。

 このシャムロックの敗北を評して、後に前田日明が「U系U系って言うけど、彼がこのスタイル始めて何年になるの?」と語り物議をかもしたした事件があるが、前田にすれば「道場マッチ」の敗れて看板を持っていかれた選手を、”UWF”という自分たちの聖域で語られる事に反発を覚えたのではなかったかとも思える。(アントニオ猪木がヒクソンに敗れた高田を評して「一番弱いのが出ていって負けた」と発言したのも、同じロジックであろう。)

 どちらにせよ、この”道場破り”的な心理が、シャムロックのホイス追跡に繋がったことは想像に難くない。第3回、第5回と追走は続くが、万を侍してのホイス戦も30分ドローという結果に終わり、ホイスはオクタゴンを去っていく。結局、奪われた看板は取り戻せないままであった。当初は「コブシで人の顔を殴る姿を子供に見せたくない」と早期撤退を口にしていたはずのシャムロックだったが、連続出場を重ねるにつれ彼を巡る環境は大きく変化していく。UFCのレギュラーメンバー化してきたことで知名度も上がり、メディアでの露出も増えた。母国での名声と地位を与えてくれた、UFCに対する帰属意識も高まっていったことだろう。シャムロックのは次第にオクタゴンの住人と化していく。ホイスの撤退後も、スバーンとの対決を制しワールドスーパーファイトのベルトを腰に巻いて、オクタゴンの主役に躍り出た。パンクラスで初代KOPのベルトも手に入れ二冠王となったシャムロックは、既に「道場マッチ」での敗北も忘れ、NHB界での地位確立に専念するようになっていく。無論その先にはWWFでの「モーストデンジャラスマン」としての、プロレスラー活動への道が続いているわけだが、ここでは割愛しよう。

 パンクラスにすれば、「シャムロックの奪われた看板」の存在はずっと目の上のたんこぶの様な存在であったに違いない。当事者であるシャムロックは、ホイスとの落し前をつける事も忘れ、NHBスター街道を邁進していく。その揚げ句には、来日を拒否し、離反騒動まで引き起こす始末。パンクラスの精神的指導者である船木は、この段階で「UFCは邪魔なので、消したいんです」とその心理を告白しているが、ずっとグレイシーに奪われた”看板”の存在を強く意識した発言ではなかったかと、筆者は個人的にはそう受け取っている。

 かくて、看板奪回の使者の使命を背負ったのは、”最後の希望”高橋義生であった。 

 97年2月7日に開催されたUFC12で、高橋はカーウソン・グレイシー門下のヴァリッジ・イズマイウを判定で破る。この試合については多くのマスコミでも喧伝され、「日本人初のUFC勝利」と大きく伝えられたものである。

 しかし、僕はこの勝利の意味に別の解釈を与えてみたい。

 シャムロックもホイスも居なくなったUFCのオクタゴンの中で、高橋は持ち去られたままになっていた、”道場伝説”の象徴的「看板」を取り戻す戦いに挑んだのだと。

 この試合内容はまだ御記憶の方も多いと思うが、まずテイクダウンされて倒れないことを念頭にした戦いであった。オクタゴンの編み目を握り締め、絶対にグラウンドへは持ち込ませない。タックルは全て切る。そして上になってとにかくパンチ勝負。優位になるためには、ファウルカップを引きちぎるという裏技まで駆使し、職業的サブミッションファイターであるパンクラシストとしてのアイデンティティをかなぐり捨てて、とにかく勝つことに専念したという高橋。この姿にいわゆるプロレス技を捨ててでも、とにかく外敵を撃退する事に専念したといわれる、プロレスラー達の”道場シュートマッチ”の面影を重ね合わせてしまうのは強引でもないだろう。

 僕に言わせれば、この戦いは高橋とイズマイウを依童にした、シャムロックVSホイスの再戦に他ならない。時間を93年11月の第1回UFCまで巻き戻し、パンクラスの「看板」を奪回しようという試み。そう解釈したほうが、平仄が合うことが多い。

 高橋はその役割を見事に果たし、「道場のポリスマン」としてパンクラスの「看板」を奪回してきた。あの名文句「パンクラスの試合の方が難しいですよ」というセリフは、そのままプロレスラー最強伝説に呼応する、自らの領分・職分への強い矜持が感じられるではないか。

 高橋はこの後パンクラスマッチに専念。この後もUFCへ出場して行きそうな気配はない。看板を取り戻して恥を濯いだあとは、いつもどおりのパンクラスマッチを観客に提供していくのみ、ということだろう。

 シャムロックの出場に始まった、パンクラスのUFCとの併走状態は、これをもって終わったと考えるべきだろう。高橋の対戦結果を伝える一部マスコミには、この試合をパンクラスの外部へのアプローチの始まりと位置づけていた物が見られたが、高橋はUFCという隣家との間の裏木戸を閉め、パンクラスの純血を守りに行ったというべきではないだろうか。

 

第2夜「王国の崩壊・キングダムの苦闘(仮題:作成中)」